今日、Greenzの鈴木なおさんと週一のactivist meeting(社会変革打ち合わせ?)をしてた。「社会変革」と言っても、僕たちの場合すべてが含まれる。家族の関係性、心身の状態、生活、地域での活動、国内外でのできごと、大きな社会への働きかけと、そのミーティングの時間の二人のあり方まで。
そこで、お互いの活動のアップデートしたり、次の展開のシェアしたり、フィードバックしあったり、いろいろ妄想してた。世界中のアクティビストとやっている、僕の大好きな時間。
そこで、アメリカから始まったBlack Lives Matterの話になった。今、それについて踏み込んで書く余裕はないけど、Greenz.jpで最近そのテーマの記事が上がった。ぜひ、みんなも読んで、作者の問いについて考えて見てほしい。
不平等を黙認している私は、抗議される側なのか。
私は今回の抗議行動を見ながら、抗議される側にいるかもしれないと気づきました。今回人々が抗議しているのは、不平等な社会に対してですが、不平等な社会をつくっている人には、その構造を積極的に維持している人に加えてそれを黙認している多くの人々も含まれます。
私は不平等を黙認しているのではないか、だとしたら抗議されているのは私なのではないか、そんな自省の念に襲われたのです。
記事の全文はここ
不平等を黙認している私は、抗議される側なのか。自省の念に襲われて、人種差別を扱う映画を見直し、考えてみた。#BlackLivesMatter
記事には出てこなかったけど、僕のオススメの映画は
・グローリー/明日への行進 (英語はSELMA)← 「非暴力」運動を描いたパワフルな実話
・ブラッククランズマン ← スパイクリーの作品 これも実話に基づいた、もうちょっとポップな映画。エンディングと字幕で流される最近のニュースが現実に僕たちを引き戻してくれる。
(ここからは、自分の考えを日本語で整理しようとしているプロセスの文章。初稿。もっと素敵な文章書けたらいいのにな〜と残念に思っている)
僕を含め多くの人は、自分が平和な社会を願っていて、差別とか暴力をしていないと信じていると思う。そして、できるだけ身の回りの人にやさしく接して、人に迷惑をかけない生活を試みていると思う。でも、見えてない「意図的」ではない差別や暴力に加担していることってあるんじゃないかな?
アメリカのsocial justiceの文脈で学んだ二つの難しいけど、大きな気づきになったテーマが
1。structural violence 構造的な差別や暴力
2。rank and privilege ランクと特権
構造的な差別や暴力は、例えば法律だったり文化的な世界観だったり。アメリカでは、黒人の方が圧倒的に路上で職務質問されたり、適当な理由で逮捕されたり、暴力をふるわれたり、殺される確率が高い。日本でも、男性の方が同じ仕事をしていても給料が良かったり。僕のおばあさんは、雇用されるためには主人の承諾が必要だったりしたらしい(それで、承諾がなかったから雇われなかったこともあったみたい)。沖縄に米軍基地が集中しているのも、構造的差別なんじゃないかな。
そういう現実に気づかないことも多いと思うけど、気づいても何もしないことも多いよね。その延長線に、平和と共生って実現するのかな?
ランクと特権は、例えば、白人に見える僕は、警察官を恐れずにアメリカ社会で過ごせること。例え、止められても流暢な「白人的」英語で自分の行動を説明したり、自分の権利をアピールすれば大丈夫(それも状況にもよるけど)。そんなのあたり前に聞こえるかもしれないけど、黒人の場合は僕と同じ行為をしても、逮捕されたり暴力をうける可能性がはるかに高い。
日本では、逆に普通に改札口から出た瞬間に「怪しい」と言われて警察官に止められたことが二度もあるけど(かなり不愉快!)。見た目で判断していたと思うんだけど、一種の構造的差別の現れだと思う。おそらく、スーツをきている「日本人」顔の男性や「日本人」顔の女性はそんな体験をせず、そんなことも恐れずに一生を過ごせるじゃないかな。それが特権。僕よりも韓国人、中国人、東南アジア人、黒人っぽく見える人の方がもっと不愉快な体験をしていると思う。
他の例だと、僕は男性として痴漢を恐れたことがない。でも、多くの女性の話を聞いていると、小中学生からそういう不愉快な体験をしてきた話を聞く。それも、一種の特権。
*男性が痴漢にあわないということではない。
特権は生まれつき持っている権利のようなもの。男性だからとか、白人だからとか、都会出身だとか、高学歴の家族出身だとか、身体障害がないとか。特権がある側だと、それに気づくのが難しい(普通だと思ってしまう)。「何で自分は扱いが違うの(他より悪いの)」って時の方が気づきやすい。
そして、特権がある人は、訴えられたときに、構造的な問題と思うよりもその差別や暴力を受けている人が悪いと思いやすい。黒人が警察官に殺されたら、「おそらくその黒人が悪いことをしたのだろう」と思ったり、「黒人の犯罪者が多いからしょうがない」とかって思ったり。
レイプされた女性が話題になったときに、男性の裁判官、政治家、テレビパーソナリティなどが「その女性が悪いのでは」っていうような話も国際ニュースで聞いたりする。スカートが短かかったとか、酔っ払っていたのが悪いとか、十分に抵抗しなかったとか。
ここで大切なのは、誰が正しいとか間違っている、誰がいいとか悪いとかではない。これは、個人の問題以上のものだと気づいて、そこに働きかけることが重要なんだと思う。そして、人の痛みや苦しみを他人事に済ませないことが、より多くの人が含まれる平和な世界を実現するために欠かせないのだと思う。
特権のある人たち同士だけでいくら平和な社会を目指しても、その「平和な社会」の代償を払う人たちは含まれない。例えば、僕たちの物質的に豊かな暮らしを支えているのは、「発展途上国」と言われている国の低賃金労働者や奴隷(アメリカの刑務所で権利のない囚人もその一部)。経済と暮らしを支えているその構造、そういう人々をどう僕たちの「平和な社会」の意識とビジョンに含めるかが、十分に触れられていない大きなテーマだと思う。沖縄の人たち、アイヌ、日系ブラジル人、在日朝鮮人、発展途上国からの「インターン」、孤児、シングルマザー、高齢者、ホームレス、囚人、低所得者、移民、難民など、普段見落としてしまう人たちを、どれだけ僕たちが目指している「平和で豊かな世界」に含められるかがものすごく重要な気がする。
罪悪感を感じる必要はない
大切なのは勇気のあるやさしさと思いやり
苦しみと絶望に寄り添って
愛をもって必要な限りそこにい続けること
痛みも含めつながりを感じ続けること
それこそが共生革命なんじゃないかな
それこそがmoved by love