結婚の歴史とパートナーシップのこれから

岐阜でギフパ(ギフトパーティ)というイベントの会場に面白い雑誌があった。

NEUTRALの2005年7月号
「世界の結婚観 幸せになろーよっ!」


とくに興味をひいたのは、日本の結婚史のページ

現代だと、男女が恋をして、結婚をして、死別するか(「成功」)離婚する(「失敗」)が一般常識なんじゃないかな?

それ以外は例外扱い。

僕もそういう常識の中で育てられたものの、そのストーリーに当てはまらない現実と出会うようになった。

例えば、
お見合い結婚 意外といる!しかも恋愛型の結婚より長く続くらしい
同性愛 昔は「変」だと思い込んでいたけど、その抑圧的な偏見が社会から植え付けられたことに気づいてから、なぜ、異性愛者がここまで同性愛を抑圧するのかが理解できなくなった
一夫多妻制 世界中でいまだに行われているみたい。多夫一妻はあまり聞かないけど)
ポリアモリー 複数の人と有機的に関係性をもつ広い領域)
アセクシュアル/アロマンチック 他人に性的欲求を抱かない/他人に恋愛感情を抱かない

そもそも、なぜ結婚をする必要があるのか?ってことを高校生の頃から考えるようになった。

僕には、結婚という現代制度がとても不自然に感じられて、親密な関係性に悪影響を与えていた感じがずっとしてきた。もちろん、結婚で幸せならそれは素敵だと思う(たま〜に、数十年続いている円満結婚の夫婦と出会う)でも、僕の周りでは親の不幸な結婚や離婚で苦しんでいる友達がたくさんいた。

カリフォルニアの大学に通っていたときに印象的だった授業の一つが、結婚制度についての法学のクラス。もともと、アメリカでは結婚をしたときに、妻は夫の”property” (所有物)となっていたらしい。そして、お金がなくなったら妻という所有物に売春をさせて、生計を立てることも合法だった。むしろ、夫の権利だった。パトリアルキー(家父長制)!

今でも、妻や子供は「主人」(男)の所有物感があるよね。
文化的にも、法的にも。

僕は、愛と所有という組み合わせに違和感を感じる。

そもそも所有は、「分離の世界観」Story of seperation から生まれる幻想だと僕は思っている。

共生・interbeing・つながりの世界観なら、所有する必要性がないし、そもそも所有はできない。

だいぶ、一人で盛り上がってしまってけど、雑誌に戻ろう!

参考文献になっているのは「家族と結婚の歴史」という本

なんと、平安時代の前は、多夫多妻だったらしい!

じゃ、日本の「伝統的」な恋愛は多夫多妻制?!!

Patterning Instinctという認知科学から見た人類史の話の中でも、もともとは多夫多妻制/ポリアモリーが主流だったと書いてあった。そして、農業の発展と共に結婚が、家族間での資産を増やすための手段化したというような話があった。

この流れを見ると、現代に向かう中で多様性と自由さが減っていって、制度化が進んで、男性が権力者化していく流れになっているような印象がする

が!また、最近、パトリアルキーの抑圧的な土壌から多様化と自由さの芽が育ち始めている傾向になってきているのでは?!

僕が願っている世界は、それぞれが安心してありのままで存在できる社会。一部の権力者が自分の思想をみんなに強制する社会ではなく、多様性を祝福して、それぞれの大切にしていることに寄り添う共同体(バラバラした個人主義とはまた違う)。

下のコラムも興味深い

神前結婚のルーツはキリスト教!?
生みの親は欧米列強への対抗心

そもそも「伝統」というのは概念で、日本の結婚形態のように「伝統」も変わり続けている。そして、結婚や恋愛は権力や政治と密接に結びついている。

日本の神前式は、主流キリスト教の世界観を和風にしただけなのかもしれない。そして、そこに資本主義がさらに入ってきて、結婚儀式ビジネス化して、どんどん愛で結ばれた関係性のエネルギーが濁っていく感じがする。

アメリカで話題になっていたのが、主流キリスト教が前提としているHeteronormativity.

へテロノーマティヴィティ(Heteronormativity)=異性愛規範とは、「世の中には男/女しかいない」「セックスや恋愛、結婚は男女間で行うべきものである」という規範、思い込み(バイアス)のことを言います。

 これまで世間の多くの人々は、子どもに「男」らしくしなさい、「女」らしくしなさい、と、もともと多様であるはずのジェンダーを「矯正」しようとしてきたり、相手のセクシュアリティに関係なく異性との結婚を勧めたり、強要したりしてきました(LGBTQを疎外してきました)。「世の中には男と女しかいない」「セックスや恋愛、結婚は男女間で行うべきものである」と、その規範から逸脱することは、不道徳、人の道に外れたこと、世間から白い目で見られるようなこと、不幸なことだと思い込んできたからです。このように言う人たち(親兄弟や友人、先生、同僚だったりします)は、決して「いじめよう」「困らせよう」と思って言っているのではなく、相手の幸せを心から願って言っていたりします。それなのに、言われたLGBTQは困惑し、葛藤し、苦しみ、時に自死に追い込まれたりさえするのです。これは社会のありように問題があるとしか考えられません。では、このようにLGBTQへの偏見や差別、抑圧を日々、再生産してしまうものは何なのだろうか、と(当事者だったりする)哲学者や社会学者の方たちが考え、へテロノーマティヴィティという概念に結晶しました。

Out Japan
https://www.outjapan.co.jp/pride_japan/glossary/ha/6.html

欧米キリスト教の影響下分からないけど、日本にもこういう「常識」があるような気がする。

男性は「男っぽさ」(心身が強そう?経済力がありそう?)のプレッシャーをかけられたり、女性は「いつ結婚するの?」「いつ子供産むの?」とかって聞かれるのが普通だったり、20代半ばからさらにプレッシャーが家族からかかったり。

お互いにプレッシャーかけるのをやめよう。ストレスが増えるし、関係性もゆがむし、その人が願っていない選択をする事態を引き起こしてしまう。

権力がある人の正しさを手放して、素直さや、思いやり、心の寄り添いあいを軸とした、無条件の愛の土壌を育めたら、もっとみんな幸せで生きやすくなるんじゃないかな?

簡単ではなさそうだけど、正しさを押し付けあって、傷つけ合う「伝統」を続ける意味はない。そういう社会は、関係性の分離が広がって、崩れていく。

多様性を祝福して
お互いに好奇心を抱いて
自分を犠牲にせずに、
相手も犠牲にせず
思いやりと素直なやさしさで
何千年続いている暴力と抑圧を癒して
それぞれが生きやすい社会を
そうぞうし直そうよ

be moved by love
kai

下は、同じ記事に含まれていた古いデータだけど、興味があればcheck it out

*これは、愛、恋愛、パートナーシップ、パトリアルキーをテーマとしたシリーズの記事

パーマカルチャーツアーやってるよ。