生きるとは?

僕の人生のテーマはこの問い

「生きるとは?」

ただの知的な娯楽というより
自分の命のエネルギーを何に捧げるかを
探求しながら実験を続けている感じ

複数の仮説があって
それぞれを信じている複数の自分がいる

例えば、
・共に暮らしたい人と出会って、子供を授かること(子孫を残す説)
・生きているから、とりあえず生きる説
・自分のポテンシャルを最大限に発揮する説 ←誰がどんな基準で評価するのかが定まらないけど(キリスト教だと神様だったり、資本主義教だとマーケットなのかな?)
・良い人、道徳のある人になる説 ←同じく、誰の基準で「良い」を決めるのか?
・考えても無駄。言葉と思考の世界は概念だから説 ←禅やヴィパッサナの影響

それぞれを信じて、それに合わせて言動をとっている自分がいるように感じている。一貫しているように思えない。みんなはどうかな?

別に一貫性を持つことも「良い」とは思わない。「良し悪し」も人が定義して、そこにそもそも一貫性がない。

じゃ、何を基準にして生きるのか?

follow your blissという表現をカリフォルニアで聞いたことがある。

神話学者ジョセフ・キャンベルが言ったとされる、
“Follow your bliss and the universe will open doors for you where there were only walls” 
「あなたの至福を追求しなさい。そうすれば宇宙はあなたのために壁だけしかなかったところに扉を開けます。」

なんとなく、僕もそれに影響されて感覚を大事にしながら、今のような自由な生き方をしている

ただ、疑問を感じるのが「至福」がキーワードなんだけど、それって何?おそらく、これも多様な定義がある。そして、気になるのがこの表現を使っているのが、生活に困ってなく、比較的特権がある人たち(僕も含め)である感じがする。

難民、囚人、DVを受けている人、奴隷、生活が困難な人たち、さまざまな形の抑圧や暴力を受けている人たちに「至福を追求しなさい」って僕は言えない。

世の中に多くの人が苦しんでいなか、「自分の至福」はなんだろうって考えたりもする。

今、人類が直面しているさまざまな災難を考えると、おそらく次世代はもっと大変な状況になるんじゃないかと想像してしまう。その現状に対しても、どうしたら良いのかについてもよく考える。

3歳の娘がいるから、なおさら日々考えさせられる。

彼女にどういう生き方や、あり方を体現したら良いのか?

どちらかというと、彼女から生き方とあり方について学んでいる感じだけど。

そして、残念なことに自分を苦しめてきた、いまだに理解できていない「常識」を彼女に教えてしまっている。例えば、暑くても、自分が裸になりたくっても、服を着なければならない(たまに例外がある)。おしっこやうんちは、環境にものすごい負荷がかかる謎の「トイレ」というものを使わなくてはならない(自然の中や道場にいるときは例外)。お店の中のものは取ってはいけない(自然界からは取ってもいい)。自分の気持ちや欲しいものを抑えないといけない。周りの人(とくに自分より権力がある人)を気にしないといけない、などなど。
(非暴力コミュニケーションのおかげで、良い/悪い、ねばならぬ/べきなどは変えてきたけど)

悩む。。。けど、こういうことに違和感を感じて、見つめて、気づきから軌道修正するのが平和活動、非暴力の道を歩むことなんだと思っている

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今年は、コロナウィルスでより多くの人が「生きる」について、より考えるようになったんじゃないかな?

セットで「死」についても

生まれが始まりで、死が終わりっていうのも、今の流行りの思想だよね
死が悪いことのように扱われたりもする
でも、そうではないと僕は信じている
生死も、始まりも終わりも、概念

死ぬことは終わりではない

それを踏まえて探求しているのが、今、生きている時間をどう過ごすか?

生きるとは?

ここまでの人生という旅の中で
一番、響いているのは
to live in service of life
命に奉仕すること

個人という「分離した自分」ではなく
生態系の一部として、「すべてと繋がっている自分」として
全体の健全さに貢献すること
頑張るんじゃなくって、流れる
命の流れを感じてそこに宿る
動くのではなく、動かされる

恐れをちょっとずつ変容させて
全てと繋がっていることを思いだして
moved by love 愛に動かされる

moved by loveはガンジーと活動をしていたビノーバ・バーベ*の本のタイトル。ビノーバは人生をかけて命に奉仕することを追求した。神の道具として、愛に動かされることをただただ実践した。

そんなビノーバのお弟子さんと僕は大学生のときにであった
彼の名はサティシュ・クマール
僕はサティシュに大きく影響されてきて
今でも大先生、仲間、親友だと思っている

新年(これも概念だけど)が明けて
みんなと共有したい大好きな彼の言葉がある

この言葉が僕の人生の軸になっていると感じることが多い
そして、この世界観に共鳴している人たちと
より美しい世界を創造していきたい
lets find each other and grow more beauty in ourselves and in the world

人生とは巡礼です。

私たちはみな巡礼者です。自らの一歩一歩を意識し、丁寧に足を運びます。その一刻一刻が今ここにある自分です。その一刻一刻が奇跡です。

人類に奉仕し、地球のために仕えることができるという特権に、私たちは恵まれいています。地球が危機にあるからといって、思い悩むことはありません。ただただ、世界に仕える自分の一刻一刻に集中すれば良いのです。その奉仕は自らの変革です。

何かを達成しようとする必要はありません。結果として何かが達成されたとしたら、それはおまけのようなもの。何かの利益が生じたならそれも単なる副産物にすぎません。重要なことは、自分が巡礼者として、旅をしているということ。そしてそのことに大いなる感謝を抱くことです。

だから私のように、重荷を背負わず、軽々と行こうではありませんか。今ここを生きることが、そして、奉仕することが、自由であり、解放なのです。成功を求めてはいけません。ただ、今、ここにおける充実を求めましょう。

私たち一人ひとりが宇宙なのです。一体、それ以上何を背負う必要があるでしょうか

【サティシュ・クマールのゆっくり問答 with 辻信一】より


moved by love


ビノーバ・バーベ(Vinoba Bhave/1895‐1982)

インドの思想家。社会運動家。
インド・マハーラーシュトラ州コラバ地区ガゴダ村(現ライガット地区ガゴダバドラック)生まれ。マハトマ・ガンディーの第一後継者として、非暴力・不服従運動(サティヤーグラハ)を指導。サルヴォダヤ(万人の飛躍)思想に基づく社会運動を展開するなか、大土地所有者が自主的に貧困層への土地の贈与を行う土地寄進運動(ブーダーン運動)を推し進めた。

参考になる日本語の本 → 「恐れるなかれー愛と共感の大地へ」ビノーバ・バーベwithサティシュ・クマール


パーマカルチャーツアーやってるよ。