GREENZの記事「何もないわたし」から「すでにあるわたし」 贈与について

Greenzに「贈与」(ギフト)について面白い記事があった

タイトルも大事なメッセージだね
「何もないわたし」から「すでにあるわたし」

自分なりにギフトの世界をメディアでもっと表現したいと思ったりするけど、他の人が作ってくれる方が楽だね~ 

ナイス!

ギフトの実践や、ギフトの世界と資本主義のエッジでの迷走を続けて、いろいろ困惑したり、気づきがあったりして、もっといろんな人とそこを探求したり、よりmoved by love(愛に動かされて)の実践を深めたいと思っている。同じ志の人とちょっとずつ会いながら、より深い冒険をしていきたいな。not always fun, but meaningful!

さて、「何もないわたし」から「すでにあるわたし」の記事で、響いた部分をシェアしながら、コメントをしてみた

まずは、Greenz.jpの記事を読んでから、僕のコメントを読んだ方がいいかも


本当に必要なのは、”何もないわたし”から”すでにあるわたし”へと認識をアップデートすることなのだと。

「実は与えられていた!」と気づくことからはじまる、とありますよね。自分がすでに受け取っていることに気づくこと自体が、実は与えてくれていた人たちへの返礼にもなると。

→ギフトの実践で一番スタートしやすいアクションは、「感謝」の実践だって提案することが多い。感謝は僕にとって、「与えられていたこと」「与えられていること」へのお祝いの表現なんだと思う。その感謝の行為が、ギフトの精神性を育む栄養となって、さらに世界へギフトの波紋を贈るんじゃないかな?

→仲間のニップン・メッタが、「ギフトの世界では与えている人ともらっている人の区別がつかなくなる」と言ってた。例えば、ギフトを贈る機会を、受け取る側がしているとも言える。

贈与/ギフトは、とりあえず本の中では「お金で買えないもの」としています。

取引じゃ手に入らないもの、それが贈与

→ギフトはプライスレス(値段のないもの)と僕は表現することが多い。資本主義の凄さと脅威は、プライスレスのものをどんどん「売買」できるものに変える性質 x 成長し続けないといけないデザイン。成長し続けないと崩壊するから、常に新しいプライスレスなものを「買える」ものにしてしまう。

親や友人関係のありがたさみたいなものは、もらっている瞬間にはなかなか気づけなくて「実は与えられていた」っていう過去形

贈与というと、よく「与えることからやってみましょう」みたいな話になるんだけど、僕の主張は「それはできません」ということ。自分が”贈与の起源者”になるのではなく、「受け取ってしまったから誰かに贈らなければ」とどうしようもない思いから、贈与は始まると考えています。

→ 興味深い捉え方。これで連想したことは、愛に動かされている感覚のとき、与えるとか与えられたとかの感覚がなくなること。ニップンが無我の話をしてくれていたんだけど、まさにその領域な気がする。個人と個人のやりとり(与える、与えられた)の世界観と、全てが繋がっているインタービーイング(共生)の世界観の違いかな。全てが繋がっていると、与える者と、与えられる者の区別がなくなる。

ギフトは危ないというか、呪いにもなるんですよ。
どうしてかというと、受け取ってしまうことでつながりが発生してしまうからなんです。

祈りではない贈り物は相手を縛ってしまうことにもなる。

→ 人間界の「ギフト」としがらみって深い関係がある感じがする。そして、見返りを求められている「ギフト」だと、心地よく気楽にいただけなくなるよね。ただ、ここで引っかかるのが、「つながりが発生してしまう」という表現。つながりは常に存在するものだから(意識化されていないだけで)、厳密にいうと「ある種のつながり」「借りができた関係性」ということじゃないかな?

セカイ系の贈与”というキーワードが出てきます。自分の存在意味を分かりやすく実感したいがために、世界をより良くするアクションを僕らは試みると。

たとえば、僕らと同じ世代の人間って、災害現場みたいなところに行ってボランティアをすることにすごく熱を持っているみたいです。統計を見るとその理由の多くが「誰かの笑顔を見たいから」とか「ありがとうと言ってもらいたいから」とかなんですけど。一見贈与に見えて実はこれ、贈与じゃないんですよ。そこには「~~したい」という自分の願望や期待がある。
つまり、見返りを求めてる。

「自分の存在価値を満たしたい」という想いも大きかった。つまり「私はこのままでは十分な価値がない」という欠落感が、意識の根底にはあったわけです。その欠落を埋めるために、贈与者になろうとしていたとも言えるなと。

”セカイ系の贈与”は、「与えてもらった結果、自分にはこれが“ある”」という“充足”ではなく、「自分にはこれが“ない”」という“欠落”を起点にしているが故に、結果「やっぱりまだ“ない”」という“欠落”の体験が続いてしまう。そんな罠があると思ってるんです。

→ これはすごく大事なポイントだと思う。自分の存在価値を感じるため、確かめるための「ギフト」の試みと、満たされている存在(コップが溢れている状態)として滲み出るギフトの違いって感じかな~。どっちかというより、僕たちは両方やっている感じがする。そして、自分の存在価値を満たそうとしている、僕たちも愛おしい。ただ、根源的には「外」に自分の存在価値を求めてもみたせないところが悲劇的だよね。自分の存在価値を信じて、全てと繋がっている感覚を深めて、自然にギフトの波紋を広げる存在になっていきたいね。

世界と出会い直したら、もう明確な意図から離れて、体が勝手に贈与している状況になる。

贈与の話をすると「私は人と比べて受け取っていない」というふうに量の話をする人もいますが、「何かを受け取っているかもしれない」という認識のアップデートだったら誰でもできると思うんです。

→ギフトの活動で有名なチャールズ・アイゼンシュタインが、「ギフトとギフトじゃない世界の違いは、測れるかどうかだ」って、辻信一さん経由で聞いたことがある。ギフトは、プライスレスで、計測不可能なんだよね。やさしさとか愛って測れないように。でも、僕たちが生まれ育った社会は、化学や資本主義を中心として世界観で、全てを数字に変えようとする傾向がある。そして、比べたり、分析したり、評価することを強調している。資本主義の一つの原動力は「足りない」「もっと欲しい」という劣等感、欲求、成長願望だったりするんじゃないかな?そこが、ギフトとの世界観と相容れないのかもしれない。足りている、満たされているは、資本主義にとっては致命的。

僕は別に「贈与で世界を満たそう」と思っているわけではないんです。お金を払えば解決できることはたくさんある。でも、それはとても自由にみえるけど、それだけだとサバイブできなかったり、寂しくなってしまったりしますよね。

自由と見せかけてそんなに自由ではない、そんな資本主義の隙間に贈与を差し込んでいきたい。

→ 面白い表現の仕方だね。この「隙間」って、意識の隙間なのかなって思った。資本主義の信者として(僕も含め)、ちょっとずつ違う世界があることを感じたり、信じることが健全な変容のプロセスなのかも。僕が、ギフトの話しや、資本主義と関連がある悲劇(鬱病の増加、戦争産業、環境破壊、気候変動、奴隷や強制労働など)をすると、必ず「でも資本主義から抜け出せないからね」とか、「とはいえ、お金がないと生きていけないからね」と言う人がいる。

それは多くの人が思うことなんじゃないかな?だって、それが僕たちの信仰だから。その信仰をもとに教育、社会、経済、政治が創造されて、その信仰を強化し続けている。権力と結びついている宗教、カルト、政治思想(共産主義、独裁主義など)からは、そう簡単に抜け出せないようにできている。資本主義も同じ。内側からも外側からも抵抗がくる。だから、資本主義信者を続けながら、ちょっとずつギフトの世界に触れて、共生の精神性を育むのが健全な一つの道なのかもしれない。

そして、ギフトの素敵な招待状を無差別に出会う人に渡すことが、僕が試みている実験という名の遊び。

「僕たちが“受け取っている”ことに気づくためには、何が大切になってくるのでしょうか。身体感覚を開くことは一つかなと思っています」とあります。いかがでしょうか?

身体感覚ももちろんですが、僕は概念と身体のあいだに”物語”、つまりナラティブがあると思っていて、それがとても大事なのではないかと思っています。

→ この後の、ナラティブと霊性の話し面白かったけど、全部読まないと理解ができないと思うので、関心があればGreenzの記事を読んでね。


日本語で書かれている「ギフト」の話しは、あまり読んだことがなかったから、表現の仕方とか捉え方の勉強になった。

まさに、ナラティブだね。

男性からギフトの話しをよく聞くけど(この対談は男二人で、僕を影響しているニップンやチャールズも男)、女性からの声、女性性からの視点をもっと知りたいな。

よく思うのが、資本主義や権力(政治とか)は男性性のエネルギーが強くて、だいたい有名になる人や重要なポジションにいるのが男性(総理大臣、政治家、資本家、社長、軍の司令官)だったりする。男の子たちは、小さい頃から「強くなれ」と煽られて、競争を通して自分の存在価値や身の安全を確保している(全員ではないけど)からなのかもしれない。男性の本能ってわけではなく。お~悲劇!

おそらく、多くの女性も同じような体験をしているだろうけど、大きく違うところは子供が産める可能性があることなんじゃないかな。妊娠、出産、子育てという領域こそが、人間界でのギフトの一番わかりやすい体験/現象なんじゃないかなって思う。子供を産んでなくても、その可能性がある性として、見えてたり、感じることが違うんじゃないかな?

その観点から学びたい。そこに大事な英知がある気がする。
視点の多様性も重要だし

日本語で言葉のニュアンスがうまく表現できている気がしないけど、僕はもっと女性からの視点を聞いてみたいな。そして、女性や女性性により導かれたいと思っている。男性と女性とその他の性(LGBTIA)、男性性と女性性とその他の性のバランスが必要だとより強く感じるようになってきた。

幸い、娘からギフトや非暴力について毎日学ばせてもらえている。

Such a gift!

パーマカルチャーツアーやってるよ。