離れて、共に:市場経済を超えた必要への対応 by ミキ・カシュタン

Apart and Together: Addressing Needs beyond Market Economies

Miki Kashtan ミキ・カシュタン著 ブログ「The Fearless Heart」より
翻訳:シルバーマン恵子 山本恭子 鈴木重子 安納献

ミキについてはこの前のオンラインWSの告知に多少書いてある
僕が超リスペクトしている非暴力アクティビズムと社会変革の大先輩

英語の原文は下(これはシリーズものなので、英語が読める人は他のもおすすめ!)

この投稿は、私がコロナの危機に対応して書いている「Apart and Together(離れて、共 に)」と呼ばれるシリーズの第 2 回目です。最初のものは、「極限の時代における機会に応え る[1]という副題がついており、現在の危機によって表に出てきた既存の課題、また表に出てく ることで個人としても集団としても命、他者、自分自身との関わりを完全にギアシフトして変 えていく機会として8つの方法を挙げています。

今回の記事では、そのテーマの一つ目の話をします。コロナの危機で、以前は急進的と片隅に 追いやられていたことを掘り下げて会話することができるようになりました。「どうしたら生 きるための大原則を「経済維持」から「資源を最も必要とされているところに向ける」へシフ トしていけるだろうか」です。

国家元首、企業経営者、それに他の多くの人たちは、もう少しの間、コロナの危機が終わるま で、ワクチンができるまで、頑張って耐えていけばまた元の普通の日々に戻ることができるか のように今も言っています。その「普通」が私たち何十億人と膨大な数の動植物にとって破滅 的なものであったことは全く気にかけていません。その「普通」が生命を将来に向けて維持す ることができる気候の可能性を全く残さなかったことも気にかけていません。私たちは、この 抽出的で浪費的な経済こそが唯一の現実的な選択肢であると聞き続けています。しかし実際に は、コロナのような危機的な状況下では、現在の経済では必要に応えることができないことが 明らかになります。実際、古典的な経済の定義でも、市場が応えるのは必要ではなく「有効な 需要」だといっています。

市場経済が必要性に応えられない理由

これは表面的には純粋な言葉上の区別のように思えるかもしれませんが、交換経済とギフト経 済の違いの全体は、この洞察の深さにかかっています。 ギフト経済では、必要の存在がその必 要性に答えようとする意欲をほかの人たちに生みます。お返しをする能力もお返しする期待も されない幼児の世話をするという行為がギフト経済を最もよく表す例です。育児という、どの ような生まれのどのような性別の人でも行うことができる行為は、相手が必要としているものを感じ、それに答えるということがその本質の一つです。「私たちは誰もが贈られることを通 してこの世に来て、与えることなくただ受け取る、ということを経験してきました 」これはジ ュヌヴィエーヴ・ヴォーン(Genevieve Vaughan)の深い洞察です。交換経済の中にも多く の例が存在しますが(図書館間貸出や人道支援キャンペーンなど)、いまだかつて母性という 例のシンプルさは他の追随を許さないものだと私もヴォーンと同じように思っています。

一方交換経済では、必要とされるものと交換できるリソースがすでに存在しない限り、必要は 何の力も持ちません。交換経済でそのようなリソース、つまり交換経済においては一般的にお 金があるということで、そのようなリソースの存在が必要を有効な需要に変えてしまうので す。その意味では、リソースはあるところからまた他のリソースがあるところに行き、その交 換の中で形が変わっているだけということになります。交換というのは流れとは違います。こ ちらからあちら、あちらからこちらという二つの動きで打ち消しになるからです。そこには心 遣いと相互の関係からくるリソースが必要とされるところに行くという流れはありません。必 要なものを受け取るのは取引、つまり相手もまた自分のリソースを私たちに渡す気になるだけ の価値があるものを受け取るというやり方で行われます。この心の痛む現実をアダム・スミス 自身が表現したものが私は気に入っています。

「私たちが夕食にありつけるのは肉屋や醸造所やパン屋の慈悲があるからではなく、彼らが自 身の利益を考えているからである。私たちは自分たちの必要についてはまったく語らず、いか に彼らの利益になるのかということを、彼らの人間性ではなく彼らの自己愛に向けて話すので ある」[2] ここには思いやりの流れはありません。必要というのはそれだけでは何の動きも生 み出しません。必要がある人が、その必要性を満たすために交換するリソースを既に持ってい なければ、その必要は満たされることなく放置されます。その一方で大量のリソースを持って いる人たちは蓄積し続けるのです。

市場経済が初期の国家によって作られて以来ずっとそうなっています。デビッド・グレーバー (David Graeber)が「負債論 貨幣と暴力の 5000 年(Debt: the First 5000 Years)」に も書いているように、市場経済は初めから課税を可能にする役割を果たしてきました。これは 市場経済、特に現代版の資本主義市場経済が、より多くの富とリソースを更に限られた人々の 手に集中させ、ますますより多くの残された人々が苦労せざるを得ない状況をつくり続けると いうやり方です。

コロナウイルスの出現とそれが引き起こしたパンデミックの影響の一つは、市場が必要に答え る能力を持っていないことを明瞭にすることができるかもしれないということです。もし市場 が必要に応えることができるのならば、「見えざる手」のメカニズムによってそれが自然に起 こり政府は一切かかわる必要がなかったはずです。それでも各国の政府は、サービスの再国有 化、戦時下のような生産動員、困窮している人あるいは全員への現金支払いなど、これまでで は考えられなかったような行動に出ています。 それこそ、市場に任せておいては必要に対応で きないということをはっきりと示しているのです。これは事故や異常ではありません。それは まさに国家の介入や個人やコミュニティ内のギフティング(訳注:お返しを求めずただ与える こと)など、市場のロジックの外で機能するメカニズムがなくては必要のあるところにリソー スを移すことは不可能、という市場機能の本質的なロジックを表しているのです。

ほんの数週間前には、アメリカが、特にドナルド・トランプのような大統領の下で、有給休暇 をサポートする政策や法案を検討するとは誰も想像していませんでした。 コロナウイルスが新 たな話し合いのきっかけを作ったのです。それは大きな変化ではありませんが、可能性を見る には十分です。ニール・ハワード(Neil Howard)が『コロナクライシスを超えた未来のため の計画(Organizing for the Future beyond the Coronacrisis)』の中に書いているよう に、州は必要への対応、様々な試みのコーディネート、移動の制限、必要があるところに資源 を分配することなどに取り組んでいます。 これらはすべて市場の妨げとなることで、市場を擁 護する人たちが、他の状況下では私たちにやってはいけないこととして忠告してきたことその ものなのです。

しかし今は起こっていることに直面して状況が変わってきています。マリス・ルイサ・ディ・ ブラジ(Maris Luisa di Blasi)が[3] 、「私たちが知っているかどうかにかかわらず、ウイル スと戦うために私たちが起動するのは[ギフト]経済そのものなのです。今は本能的にしていま すが、やがてこのプロセスに気づくことが必要不可欠になるでしょう。平穏が戻ったとき、市 場によって押し付けられた「普通、ではない」生活に再び陥るか、それとも新しい世界の必要 性を選択するかを決断しなければならないでしょう。」

なぜ「新しい世界」が必要なのか、また可能なのかを十分に把握するために、市場が生まれる 以前の過去から何が私たちをここまで導いたのかを学び、振り返ることは、表面のすぐ下に存 在し続ける選択肢を掘り起こし、取り戻し、深く考え、進むべき道を想像することに非常に役 に立ちました。次にこれに目を向けてみます。

市場と政府

経済学者が私たちに伝えたいこととは反対なのですが、物々交換の世界がありそこでの取引を 効率的にするために貨幣がそこに登場したというわけではありません。このことは、すでに先 に述べたデビッド・グレイバーが『負債論』という本の中で、詳しく書き記しています。別の 言葉で説明すると、初期の物質的な形態での市場も現在のより抽象的な形態での市場も、自然 発生したものではなく、作られたものであるということです。そして、市場経済を擁護したい 人たちが一番非難する国家により作られたということ。私たちが、人間社会の進化を理解する 上でのこの大きなシフトがどういうことなのかという詳細や深さを議論することは、この短い エッセイの範囲を超えるものです。これを持ち出したのは、そのこと自体がもたらす影響に加 えて、現在の経済理論が行っているこの事実を曖昧にすることがもたらす、とても広範に及ぶ 結果に意識を向けて欲しいからです。市場ベースでもなく、中央が計画したものでもない代替 案の可能性があるということなのです。あまり理解されていませんが、このことを見えなくす ることは、現在の社会秩序が永続し再生し続けるための方法の一つです。完全に規制緩和され た経済と完全に計画された経済を、同じ基本的な理論をベースにした一つのスペクトラム上に ある異なる混ざり具合のものとして見るのではなく、この2つを反対の理論でありお互いに戦 っている理論として見るように私たちは教育されてきました。そして、この戦いには、私たち 全員が参加しないといけない。そこには出口はないと。

新自由主義として知られる現在のレシピは、政府のコントロールから離れられるだけ離れてい るふりをしています。これはアメリカでは特に顕著です。新自由主義確立の立役者であるロナルド・レーガンは「政府が問題だ」と言うところまで行きました。彼らが本当に言及している ことは、たった2種類の政府の行動に関してだけだと私は信じています。ビジネスセクターが 資本を蓄積するキャパシティへのいかなる制限、そして必要に対して直接的にリソースをいか なる形で動かすこと、がその2種類の行動です。失敗した大企業を救済している時も、アメリ カが何十年も人口当たりの投獄率世界一の割合で人口のより多くを投獄している時も、交通の ような特定のインフラを維持している時も政府の役割に関しての不満はありません。この巧み な言葉は、ただ現実に一致していないのです。

私たちが市場の荒廃について懸念を表明すると、列挙するに及ばないほどよく知られたことで すが、レーガンとサッチャーの言葉を借りると「他には選択肢はない」と言われるのです。こ れらの言葉が意味していることは、このストーリーの中で唯一存在する代替案は、共産圏の国 家統制経済だけであるということです。そしてこのストーリーはこう続きます。これらの共産 圏は人々と自由にとても反していると証明されてきた。そして共産圏と市場を結びつけて、こ う続きます。共産圏の統制経済は予想された通りに失敗に終わったと。彼らが崩壊したこと、 私たちに警告話を残したことから、私たちはこの筋書き以外には想像ができなくなりました。 私たちの唯一の選択肢はたった一つの可能性を受け入れること。それがいわゆる自由市場経済 で、そこでは私たちは沈んでしまうか、泳ぐかしかないのです。

もし、今これを読んでいる人が、私は根本的に政府支持者であり、国家統制社会主義に傾倒気 味でもあると想像するようであれば、その考え自体がこの「これかあれか、それ以外には選択 肢はない」というストーリーの力を示しています。私は市場のファンではないし、大小に関わ らず政府のファンでもありません。横暴な市場と横暴な政府のコントロールを比較した時の優 劣についてもはっきりとした結論はまだ出していません。これを考え抜くのには膨大な量のデ ータが必要で、とても自分が生きている間にできるとは思っていません。私はこれらの質問へ の部分的な結論にたどり着いただけです。最初のものは、なぜ資本主義がここまで深く人々に 魅力的であるかに対しての私の考えです。一つの理由は「見えざる手」のイメージで、それに よって全てがほとんどあるいは全くコントロールなしで自由に流れているかのように、一見見 えるからです。市場と政府の関係、つまりは、しっかりとした政府の存在に市場の存在自体が 依存しているということは見えなくなります。これは表面的に見た時に、既存の共産圏の国々 の政府の絶対的な力のように見えるものとは、好都合に対照的です。二つ目の関連する理由 は、ほぼすべてのものを商品化することで、私たちを「もし、もっとお金さえあれば、好きだ け、もっともっと自由でいられる」という陶酔をもたらすような錯覚に陥らせることです。

私が到達した関連した部分的な結論としては、共産主義体制の中で殺された人の数は見えやす いのですが、この見えやすさは必ずしも、実際、資本主義よりも共産主義体制でより多くの人 が殺されたということにはならないということです。何年も前に、私が読んだハッとする記事 があります。資本主義により 20 世紀に殺された人の数は、何百万にも及ぶことが推定される という内容です。その記事が示した結びつきや関連性は私には説得力がありました。その数 は、何千万人という単位でした。

資本主義は避けられないものであり、大体において無害であるというと主張するこの基本的な ナレーションを越えるまでは、そして超えない限りは、私たちが到達できる最もましなレベル は、うまくいっている時の北欧諸国の資本主義ということになります。富裕層に富を増やすキ ャパを十分に与えることで彼らが富を増やし、そして他の人々にセイフティネットを提供する気になる。そして、十分な余裕と基本的安全を大多数の人に保証し、とても大きな富の格差を 受け入れられるようにするというやり方。これは、富裕層への比較的高い税金と、貧しい層だ けではなく全員に福祉を提供するというプログラムを通して行われてきました。

なぜ「うまくいっている時」と私は言うのでしょうか?それはこの不安定な休戦は、継続した 経済成長と人口が比較的まとまりがあり均一的であるということにかかっているからです。短 期的には、どちらかが変わると、スウェーデンのような確立された国でも急速に右翼化するの を見ることになるでしょう。長期的には、規制された資本主義だったとしても、成長が急激で ありすでに地球のキャパを超過しているからです。

いかに不完全であっても、いかに持続可能でなくても、短期的には市場だけでは必要に応えら れず、政府のほうが必要に応える力があり、政府の介入が時によっては多くの人にとって生死 を分かつことを今回の危機が決定的に示したことに変わりはありません。これが今回の危機の 中、私たちにより見えるようになってきていることの核心です。ここで私が投げかけたいそし て他の人たちが今問いかけていることは、「この危機が終わったら何が起こるのだろう?この 洞察は、危機の時を超えてどのように転換できるのだろう?今回の危機が、このナレーション 全てを超えていく始まりになり得るのだろうか?」ということです。

市場の論理からの脱却

市場と国家の不安定な協力関係の両極端の側を比較することや、この既存の理論の中での最適 な点を評価することでもなく、代替案が確かに存在するという基本的な事実にここで戻りたい と思います。2つの基本的な形態は、ギフティング(訳注:見返りを求めずに必要があるとこ ろに必要なものを与えること gifting)とデビッド・ボリアー(David Bollier)が「コモニング (commoning)」と呼ぶ「コモンズ」の一員になることです。ギフティングは直接的な行動 を通して、必要へリソースが流れること。コモニングはコミュニティが、一緒に協力しながら 継続的な合意を通じてリソースに関わる時に起こるリソースの共有です。

ギフティングもコモニングも、心遣いや関係性という市場が見せまいとしている人間の資質を 表しています。このことは、アダム・スミス(Adam Smith)自身もよくわかっていたこと で、実際に、今日よく知られている市場に関する探求のようには知られていないものの、彼は 道徳、コミュニティそしてその他のことについて言及しています。身勝手な欲望と他の人の犠 牲を顧みずに欲望を満たそうとする意欲により、完全に食い尽くされている創造上の生き物で ある、今日のホモ・エコノミクス(homo economicus)の概念に反して、スミスが 1759 年 に書いた「道徳情操論(The Theory of Moral Sentiments)」はこのような言葉から始まりま す。「人間がどんなに利己的であろうと、その性質には、明らかに他人の利益に関心を持つ高 潔さがある。彼はそれを見ることの喜びを除いて、それから何も得ないのであるが、彼らの幸 福を彼に必要なものにするのである・・・最も偉大な悪党も凝り固まった社会の法を破る不法 者にも、それがないわけではない。」

インセンティブや強要がないと、私たちは何もしない。人間の生命を維持するために必要な物 を生産することも、市場がその役割を果たせない時に他の人々への心遣いをすることもできな いという考えを少なくてもある程度、私たち全員が信じることが市場と政府の構造全体が成り 立つためには必要です。人間はお互いや命を養う資源をケアすることができるし、そのように 作られているということを強く信じることが欠けていること。このことは、もっと微妙で気づ きにくのですが、リベラル左派の処方箋(訳注:対策)にも表れています。

この鍵となるポイントで私はアメリカのリベラル左派とは道を分かちました。私は必要をケア するために政府が必要だとは考えていないし、多くの場合、素晴らしい仕事をするとも信じて いません。デビッド・スティーブン(David Steven)とアレックス・エヴァンス(Alex Evans)が『コロナウイルスパンデミック後の世界への計画(Planning for a World after the Coronavirus Pandemic)』[4]で「共有資産」の世話をする様々な方法を説明しています。 「最初はこのような措置は公共の借金で支払われるが、最終的には労働から富に課税の負担が シフトすることで、富裕層が請求書の大半を支払わなくてはならなくなる。そうでなければ、 資本主義自体がその存在を問われるようになるだろうと我々は信じている。」リソースを必要 なところに動かす唯一の手段が強制的な手段(課税)であること、資本主義からの脱却は問題 であると考えていることがこの記事では表現されています。それ以外に関しては、何が起こっ ているかについてとても批評的な記事であるのに。このことも、間接的に資本主義が友好的な 政府に依存していることを示しています。

私の結論ははっきりとしたものです。私が見ているのは、信頼の欠如、人間性というものへの 暗黙の否定的な理論、その結果のいじりまわすことと強要しか手段がないという結論が、十分 な先見性と創造性に富んだ道が現れることを妨げています。それをここから見ていきましょ う。

必要を中心に置く: ケアと関係性

ギフティングとコモニングは全く異なる手段ですが、どちらもが完全に市場の基盤となる交換 と蓄積の論理から脱却しています。ギフティングは、リソースが存在するところから、必要と されるところへの 1 方向の流れです。その結果、一方の無条件に与えることと、その反対側で 無条件に受け取ることは直接的には繋がっていない状態です。コモニングは、いかに関わる 人々の必要を満たすために、その共有のリソースを枯渇させることなく、リソースにアクセス して分配するかということへのそのリソースに関わる人たちの間での合意のことです。このど ちらもが何度も市場経済のメカニズムに歪曲化されたり、そのメカニズムを通して説明された り、あるいは、人間性を考えると不可能なことだと言われたりしてきましたが、そのどちらも が存在し続けています。私たちが十分に深くクリアに見ることができれば、再び書きますが、 直接的に必要に繋がり、関係性と心遣いを中心にしたやり方で、私たちがどのように動いてい くことが出来るかの青写真を提供してくれていることに気づくでしょう。

ギフティングとコモニングが継続して存在していることは、市場経済が唯一のオプションだと いうストーリーにとっては、継続的な脅威となります。ですので、理論面でも現実レベルでも ギフティングとコモニングは継続して搾取され、挑戦され、否定され、却下され、嘲笑され、 はっきりと攻撃され解体されてきました。これは、私にとって驚くことではありません。全て の人のために機能する世界を望むのであれば、そして私たちが、特に資本主義なのですが、市 場経済を支える交換と蓄積のパラダイムから離れない限りは、現在、直面している問題を解決 することはできないと知っているのならば、個人として、そして集団として私たちが取ること ができる大切な一歩は、ギフティングとコモニングの歴史や意味を学びなおし、これらを取り 戻すためのより大きくなってきている実験に参加していくことだと思います。

ギフティング

多くの人類学的な文献では、ギフティングは複雑な交換の形態であり、ステータスや義務を伴 うものと解釈しています。多くの人々が、特にギフティングの分野における執筆家、研究家、 活動家であるジュヌヴィエーヴ・ヴォーン(Genevieve Vaughan)がこのギフティングの解釈 を深く議論してきました。彼女はギフティングが母性的な与えることに根ざしたものであるこ と、よって人類の進化に固有なものであることを見出したパイオニアです。他の哺乳類でこの ように長い期間、傷つきやすく依存的な子どもを産むものはいません。このため、長期間、必 要にただ応えて一方向的に与えるという能力は、私たちが現在持っている能力を持つための大 きな脳の発達を可能にさせるきわめて重要なものでした。私たちのこの依存は私たちの脳と直 接的に関係しています。なぜなら、私たちは頭が産道を通れるように、未熟な状態で生まれて くるからです。もし私たちがこの誕生の旅において、私たちが持っている必要に応えてくれる 誰かがいなければ、私たち人類は生き延びてこなかったでしょう。

一旦、この原始的なギフティング、一方的に与えること、一方的に受け取ることがお互いに独 立したギフティングを完全に理解すると、ジュヌヴィエーヴ・ヴォーンが多くの記事や本で示 してきたように、交換経済は市場を支える見えないギフティングに寄生していることが明らか になります。ほとんどの場合、女性が提供しているケアに関わる仕事は家でなされる場合は、 支払われることはなく、もし誰か支払う人がいるとしても、最も低い賃金しか支払われること はありません。もし、このケアの仕事に支払いをしようとすると、交換経済は成り立たなくな ります。その支払いに必要なだけの資本を生み出すことができないからです。加えて、無言の 目に見えない不本意な形でのギフティングが存在します。人間界ではない世界(訳注:動植物 界など)からのギフティングや、雇い主がその製品やサービスに対して受け取る額には見合わ ない、とても少ない賃金しか受け取れない人たちからの強制的なギフティングも存在していま す。

コモニング

ギフティングと同じように、コモニングは狩猟と採集の時代まで遡るとても長い間、いろいろ な形態で私たちとともにありました。コモンズのエッセンスは関係性にあります。エリノア・オストロム(Elinor Ostrom)がノーベル賞を受賞した研究で整然と示したように、実際のコモ ンズは広く引用されたギャレット・ハーディン(Garrett Hardin)の記事『コモンズの悲劇 (The Tragedy of the Commons)』の想像上の抽象的なコモンズとは全く異なるもので す。オストロムがこの論旨を論破したにもかかわらず、彼女の名前の検索はグーグルリサーチ では 72 万エントリーしかありません。論破された記事は 3800 万のエントリーがあります。 オストロムが証明した違いは、実際のコモンズは、ハーディンのモデルとは異なり、関係性を ベースにしていること。彼女は研究により、コモンズとはリソースではなく関係性であること を立証しました。人々は、リソースとの関係性の中で、コミュニティーとして共同で所有する リソースに関わるのです。コミュニティは自分自身とお互いをケアする一環としてリソースの ケアも行います。全員の長期的な幸福や健康はこの豊かで深いケアにかかっていると知ってい るからです。ハーディンの抽象的なモデルでは、その反対に、人々は関係性なしに、ケアなし に、お互いに競争する相手としてリソースにアプローチすると描かれています。リソースの過 剰な使用につながる理論は、不足と分離の理論であり、ケアと関係性の理論ではありません。

『植物と叡智と守り人(Braiding Sweetgrass)』でロビン・ウォール・キマラー(Robin Wall Kimmerer)は、書いています。入植者が北米に来た時に、地元の人たちを怠け者だと解釈した と。なぜなら、彼らが野原の一部だけを収穫し、全部を収穫しなかったから。実際には、未来 にわたりその野原が持続することができるように、意図的に行われていたことだと彼女は書い ています。

自給自足経済もコモンズも、記録に残っている囲い込みの当初から今日に至るまで、資本主義 に侵害されています。コモンズを破壊することは、関係性を断ち切り、個人が脆弱になり、仕 事が必要になるのと同じように、リソース自体を資本家の搾取に提供することになってしまい ます。これは偶然ではありません。この逆もまた本当です。もし、交換をベースとした搾取す る経済である市場から抜け出したいのであれば、私たちは関係性を築きなおし、最も本質的で 身体的であるものも含めた必要に応えることに私たちのフォーカスを戻していかなくてはなり ません

コロナウイルスと私たちの未来

さて、私はぐるりと一周してこの投稿の最初に戻ります。必要を満たすことに関して、コロナ 危機は今、何を可能にしているのか?市場経済が持つ限界が今、もっと見えるようになり、以 前は出来なかっただろう会話が可能になっているという明白な事を越えて、たくさんの不安、 苦しみ、死そして喪失をもたらしているこのパンデミックから実際に何かを得ることはできる のか?

短期的には、政府は必要のあるところにリソースを向ける対応には一番適していることがわか りましたが、私が心強く思う展開の一つは、パンデミック終了後も継続される意図で導入されたスペインでのユニバーサル・ベーシックインカム(UBI)の導入です。UBI は不思議なこと に右派、左派のそれぞれが異なる理由から団結しながら何年も語られてきました。今まで、国 全体に UBI を導入したのは、イランだけです。スペインはヨーロッパ諸国の中で初めてのケー スとなり、後に続く国が出てくる可能性があります。現時点では大多数の人にとって自分が生 きるために必要な根源的な必要を満たすためには、仕事をすることがほぼ唯一の手段なのです が、パンデミックにより経済が崩壊し多くの人が職を失い、極端な形で必要が表面化されたこ とで、このプログラムが押し出されてきたのです。会話は深まり、世界中に UBI を確立するよ うにという圧力が高まっています。多くの人が幾つかの国で導入された1度だけの現金支給 は、完全な UBI 導入への前触れになる可能性があるとみています。

UBI に関して時が満ちている今、私は答えよりもたくさんの疑問を持っています。UBI は必要 を中心にするという動きの第一歩になり得るのか?大規模な変容の最初なのだろうか?それと も既存の体制を維持するためにギャップを埋めるだけのものになるだろうか?「経済」を「ノ ーマル」に戻すことが大きな機会損失になるということを知った私たちのような一般市民には 何ができるのか?何か国レベルではなく、より小さなスケールですぐに導入できるものはある のだろうか?スケールが小さいことで、私たちが影響力を与えられることの中で。コモンズや ギフティングをより広い人々に紹介するためにすでに始められることはあるだろうか?私たち は集団として、現在の限界を超えて、知らない人とリソースを分かち合い、知らない人に与え ることを進んで行うことをベースとしたギフティングとコモニングを市場経済の代替として作 り上げることはできるだろうか?

最後に、これは私にとってはとても痛みを感じる問いなのですが、この問いが私と共にあるの です。もし、この危機が現在の経済システムを止めて、ローカルのリソースを使い全員の必要 をケアするたくさんのコミュニティを、ギフティングやコモニングを通して私たちみんなで一 緒に作り上げることができなければ、一体何が変化をもたらすことできるのだろうか?と。

[1] https://thefearlessheart.org/apart-and-together-responding-to-opportunity-in- extreme-times/

[2] Adam Smith, The Wealth of the Nations, Metalibri, 2007, Book 1, Chapter 2, p.16.

[3] https://b-www.facebook.com/groups/GiftEconomy/permalink/10158061537229731/

[4] https://www.worldpoliticsreview.com/articles/28611/planning-for-the-world- after-the-coronavirus-pandemic

パーマカルチャーツアーやってるよ。