信念とこだわり、無我と自分(サイエンズセミナーを振り返って)

自分の考えを整理し始めるための記事(まとまってない感じ)
*以前書いた【サイエンズ・セミナーを受けた感想(学びの収穫)】とセットで読むのがオススメ

僕がこのあいだ体験したサイエンズセミナーについて、アクティビスト(平和活動)仲間達と対話を重ねてきた。僕の傾向としては、深い体験をしてから(パーマカルチャーからNVCから瞑想系など)、すぐそれを周りのアクティビストにシェアして、みんなの感触を感じるようにしている。それと、熱がある間にTUPのブログやメルマガでも記事を拡散したり

信頼しているアクティビスト仲間から様々な反応/フィードバックをもらうことが、自分の体験の消化や理解のサポートになっている。なにごとも僕一人で体験して理解しているというより、生態系(activist ecosystem)の中で体験して理解をするようにしている

そこで、一人の仲間と話し合った内容がとても面白かったから、ここでみんなとシェアしたかった

大きなテーマとしては、「洗脳」「信念やこだわり」「自分」「無我」「選択」という感じかな

その仲間は、過去に「自分」を見失って怖い体験をしたことがあった。自分が信じていることを話す中で、自分の信じていることやこだわりを問い続けるプロセスから何がなんだかわからなくなってしまい、どうしたらいいかわからなくなる体験談を話してくれた

僕はサイエンズセミナーで実りのある体験をしたと思っているけど、確かに全てを「実際はどうなんだろう?」と問い続けると、何も確信が持てなくなる感じがする。全てはあまり根拠のない概念(自分、社会、お金、平和とか)に過ぎなくって、何を基準にして生きていったらいいのかが分からなくなる時もある。

例えば、サイエンズセミナーで苦労したポイントの一つが食事。僕が参加した時は、お弁当屋さんの肉魚食が食事のベースになっていて、添加物とか白砂糖の入っているおかずが多かった。こだわりとして僕はなるべく地産地消の有機無農薬の野菜を食べるようにしていて、肉/魚、添加物、白砂糖、どこでどの様に作られたか分からない工業製品は食べないようにしている。自分の価値観、健康、環境への影響を考えて、年々こういうこだわりになった。(ラベルをつけるとflexitarian フレキシタリアン、こだわりはあるけど状況に応じて多少柔軟なベジタリアン)

でも、「実際はどうなんだろう?」って問い始めると、「果たして本当にこのこだわりが僕を幸せにしているのか?」「本当にこれが環境や健康にいいと確信を持てるのか?」「根拠は?」って感じで、セミナー中に戸惑い始めた。おそらく、アズワンに長くいたらこういうこだわりを手放して、みんなと一緒に気にせずお弁当屋の料理を食べているだろう。アズワンでインタビューした、ブラジル人の有機農業活動家だったジエーゴがそんな話をしていた。来た当時は弁当屋の食べ物なんか食べるもんかって主張したり、大量のプラスチックのゴミのことについて不満を抱いていたけど、アズワンでの生活が進むにつれそこのこだわりがなくなって、今では弁当屋の盛り付け担当に全力を注いでいる。彼は有機農業の活動をしていた時よりも幸せな人間になったと言ってた。でも、本当にそれでいいのか?

こだわりや主張が強いと、確かに人間関係が難しくなったり、自分のコントロールがきかない状況(食事が選べないとか)で不満を感じたりする経験は多々ある。仏教ではそいうことを「執着」ってよぶんじゃないかな。それらが不幸の「タネ」とも思えることがある。こだわりや主張がないほうが、どんな人ともどんな状況でもより調和や心の平安を感じる気もする。でも、何かが腑に落ちないだよね

僕が探究している「無我」の領域とも捉えられるけど、もう一方では「無関心」のようにも感じられる。全てを受け入れられる柔軟でやさしい心と、「なんでもいい」というような麻痺した心の違いかな。。。まだ、これについてはもうちょっと考える必要があるけど

ちょっと違うポイントかもしれないけど、自分の世界観や信じていることを疑い続けると、主張もできなくなっていくんじゃないかな。目の前でセクハラやパワハラ、人に危害がある行為が起きていても、自分の捉え方の問題だと思って何もできなかった人の話をなんどか聞いている。実際、様々な産業、政治界、カルトや宗教団体、コミュニティの中でそういうことが問題になってきているし。

まだ、いろいろとまとまらない考えがいっぱいあるけど、ひとまず怖い体験をした仲間の言葉をここでシェアしたい。彼女が言ってたことをメモってみた

自分にとって大切なもの、手放したくないものをただ自分から奪ってしまわないことも大切。

疑わずとも何もかも手放すことはできるけど、自分のこだわりや信念、手放そうと思ったら手放せるかもしれないのだけれど、手放しちゃった結果、生命の循環に貢献しないシステムに意見がなくなったせいで賛同してしまうこともある

私だったら、そういうワークをやる時に、誰とどういう目的でどのようにやるかを選ぶのがすごく大切

なぜかというと、その文脈や関係性に誠実さがない時に、相手から簡単に操作されてしまうから。

私は、私が自分の真実と選択を深めることを大切に思っている

それが選択できる自分がいなくなったとしたらそれはとても危険なことだと思う

例えば、自分に対するこだわりがなくなったら、自己犠牲を厭わない人になりかねなくって

→自爆テロのようなことをしてしまう

→ 環境や人の健康を意識した選択(地産地消、有機無農薬とか)を手放す

そうすると自分が所属している組織があってないことを

それを気にしないで従うことになってしまう

信じているものを問い続けてじぶんの信念(こだわり)を手放してしまったあとに

誰が何かの目的で思想や教えを新たに伝えられたとき、
もはやそれをうけいれるかどうか選ぶ自分がいない結果
誰かに操作されることになってしまうのではないかという恐れがある

「自分にとって本当に大切なものはなんなのか?」
を手放すことが生命に貢献することなのだろうか?
という問いがある

一部の人が、システムをつくり構造を支える重荷を背負い
他の人たちがそれに依存する場合

もし、その構造がうまくいかなくなったり
悪用されることがあった場合は対応することができない

いや〜どんなことも、いろんな捉え方があるね

何を信じたらいいのか。。。。

何を基準にしたらいいのか。。。。。

考えすぎるとわけがない分からなくなってしまうから、とりあえず、僕は自然、自分のハートと、信頼している仲間に動かされながら、意識の冒険は続けていこうと思っている

無限の可能性の世界

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パーマカルチャーツアーやってるよ。