パートナーシップ、鬱、ポリアモリー

前回のトラウマの記事に引き続き、この記事も、無防備さ(vulnerability)ヘのチャレンジ。
#トラウマ

長いエッセイみたいになったので

時間があるとき

または、ちょっとずつ読んで

自分の反応を観察することがオススメ

Have a nice day

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まず、【リメンバリング – 大切にしたい世界観】

正しい行いと間違った行いを越えたところに

野原が広がっています

そこで会いましょう

ルーミーの詩

【前書き】

2021年の1月から長年のパートナーと別れて暮らすことになった。

「去年別れた」と言った方が分かりやすいとも思いながら、いつ「別れた」のかは定めにくい。僕の中では2019~2021にかけて、長い「別れ」のプロセスだった。長かった理由の一つは、お互いを愛していて、それぞれが大事にしたいこと実現する形を必死に探りながら、共にいることを諦められなかったからだと思う。今までのパートナーシップの形への執着や、形を変えることへの恐れもあった。「別れる」ことは社会的によろしくないこと、批判や噂さの対象になること、「誰が悪いを探すゲーム」などへの恐れとかもあった。それらは、現代の日本社会で育つなか中で、「常識」として植え付けられて、意識の深くまで内在化されたものだと思っている。

「別れた」っていう表現も適切ではない感じがする。今もお互いを支え合っているし、そこには愛もあるし、娘をチームとして育て続けている。恋愛関係を終わりにして、別々の場所(徒歩7分)で生活をしているって感じかな。そういう意味では、愛や関係性の形が変わっただけなのかもしれない。変わったっていうより、変わり続けている。全ては無常。

有機的な現実を言葉で定めようとするのは難しいよね

この新しい関係性のカタチを探す中で、彼女の言動に恐怖を感じたり(身の危険を感じるくらい)、解離(体を残して心が別の場所に行くこと)したり、滅多にない怒りの感情に飲み込まれたりして、いつの間にか鬱病に入っていたことに気づいた(重度のうつ病は3回目)。

人と会うのが怖くなって、常に評価されているんじゃないかって恐れるようになって、逃げ回るように安心安全な場所を数ヶ月間探し続ける大変な日々だった。日常が精神的サバイバルになっていた。妻も親も知り合いも、僕の精神状態が理解できなかったのか、僕の精神状態が彼らにストレスを与えていたからなのか、より不安や恐れを引き起こすことを彼らに言われたりして、死ぬことをたびたび考えるようになった。生きることが辛すぎるから、死んだ方が楽な感じがした。うつ状態だと、死への抵抗も減るんだよね。「別に死ぬことって悪いことじゃないじゃん」的な。

今は、鬱病から抜けた感じがしいて、生きていることを毎日お祝いしている。

生きのびれた!!!

鬱じゃない状態って全然違うね!

自分のしぶとい生命維持システムとともに、どんな状態の僕でも、やさしさと思いやりをもって接してくれた数人の知り合いに救われた感じがする。ありのままを受け止めてくれる「コミュニティ」。「評価や批判」、「正しさや常識」ではなく、目の前の命に共感的に接してくれる彼らのあり方が、僕を救ったのかもしれない。その輪をより多くの苦しんでいる人に、広げていきたい。

【鬱や孤独で悩んでいる君へ】

苦しんでいる君へ

君の苦しみは、君のせいではない。

そして、君は一人じゃない。

今も、森の木々や海のプランクトンは

君の体に必要な酸素を贈ってくれている

ゆっくり森と海の恵みを吸ってみて

大きく吐いて~

ハ~~~~~~

体に酸素を巡らしながら感じてほしい

僕たちは無条件の愛に生かされている

そして、森と海はいつも君を愛している

どんな状態でも、どんな人生を生きても

なぜなら、僕たちはみんなつながっているから

地球は君を必要としているよ

生きててありがとう

【前書きのつづき】

僕はそんな、とてつもなく大変な旅(うつ病とか)から帰ってきて、得た気づきや学びをみんなと分かち合いたくなった。恋愛とパートナーシップ、トラウマとうつ病、一夫一妻主義とポリアモリー、関係性に負荷をかける社会制度や「常識」、内在化された抑圧などなど。

長年のパートナーと苦しみながら新しい関係性にトランジションする中で得た未完成の気づきや学びや問いをまとめようとしながら、書いてみたので、よかったら読んでみてね。

<本編>

~~~以下は、うつ状態だったとても繊細で無防備な自分が、2021年の6月あたりに書いたもの~~~

【第一章】トラウマと鬱に困惑しながら、なぜこの記事を書いているのか

とてもパーソナルなので、一般公開する意図や理由を2ヶ月くらい考えてきて、幾つか思いついたからそこから始めたい

・無防備な自分をしっかり受け止めながら、不安や恐れではないく、愛から生きたいから

・自分の人生を社会実験にしながら、そこから得た学びや気づきをみんなと共有することが、いつの間にか、僕の生きる目的のひとつになったから my activism

・さまざまな苦しみを引き起こしている「何か」をみんなと探求しながら、根源から捉えてみたいから

・自分のパートナーシップが変わったことを一人一人に、丁寧に説明したり、相手の反応を受け止めるのが大変だから、新しい手段として、こうやって書いてみている。

結論から言うと、今まで「パートナー」だった人と「別れた」

そして、子供がいるから、今の社会だとその難しさもある

さらに、僕に新しいパートナーができたことの波紋もある

さらに、さらに、ま、それは後ほど

ただ、今でも一種の大切な「パートナー」だと思っているし

(実際、さまざまな形で支え合ったり、あたたかく接していることもある)

「別れた」けど、「別れていない」部分もいっぱいある

なので、簡単に全体像を説明するのはものすごく複雑で

その全体性を分かち合えないのがいつも残念に思える。

誰だってそうじゃないかな?

「付き合う」とか「別れる」とか「結婚」でさえも

すごく抽象的で、その個人と相手の心境や

それまでとそこからの流れを

ものすごく単純化しているんじゃないかな?

それぞれの想像で現実とはかけ離れた方向にイメージが膨らんだり

ま、そんなことも考えながら

今回のできごとで色々辛いこと、大変なこと、

そしてそこからの気づきがあったから

シェアすることにした

まだ、まとまっていないけど、誰かの役にたてば嬉しいな

【第二章】社会の正しさや理想に大きく影響されて

僕は、どこかで人生の目指すべき方向は「安定した収入を得て、綺麗な女性と結婚して、子供を産んで、マイホームで核家族として豊かな消費生活をおくる」って教え込まれていた。高校生くらいの時に、これがなんとなく方向として僕の中であった。周りにもあった。正統派の世界象的な

もう一方では、映画やドラマやセレブの世界や音楽(ラップとか)とかで、いかに多くの女性にモテたりセックスをするかが、男性の価値みたいなメッセージもずっと受け続けた。金と物と女。高校生だったころに、童貞だったことが恥ずかしいと思っていたのを思い出す。そういえば、高校2年生ごろ、このままだと、死ぬまでセックスできないのじゃないかって不安と焦りもあった。女性と付き合っていた男たちに憧れていた。

これは、自然に自分から湧いてきたものというよりも、社会から教わった/植え付けられた思想だと、今は理解している。今は、両方の世界観に違和感を感じるし(女性を所有や利用の対象にしていることとか、男性にかけられている「強くなれ・偉くなれ」プレッシャーとか)、今はそれを学びほどいいている(unlearning) 最中だけど、無意識に影響され続けていると思う。最近は、これらの世界観の根底にあるものを【パトリアルキー】(家父長制・ 父権制)と考えるようになって、それについて研究を進めている。

Greenz.jpでパトリアルキーの記事を出したので、check it out!

子供の頃、身の回りでは、DV、離婚、不倫、自殺、壊れた家族の影響を受けてきた友達がたくさんいた。離婚はしていないけど、夫婦で会話のない、あまり幸せそうじゃない家族もいた。幸せな家族や夫婦が珍しいものだと思うようになった。そうでない人たちは社会の「負け組」って感覚もあった。高校時代、そういう家族の子供たちが、僕の「不良」仲間だった。(「不良」って、苦しんでいる子供に対しての厳しい評価だね)。

誰かの正しさを押し付ける社会から、それぞれのありのままを尊重しながら、みんなで共感し合いながら、関係性を養いあう社会になったらいいな~っていつも思う。それは、なんでもありってことでもなく、ルールや評価批判ではなく、誰も犠牲にならない、よりダイナミックな関係性のOSってこと。僕は、先住民の伝統な暮らし、NVCやエコビレッジなどの文脈で、そんな取り組み/実験と出会ってきて、歴史的にも今現在もコミュニティとしてパートナーシップにすごく魅力を感じている。

【第三章】浮気と不倫

初めて恋愛した時から「浮気」がしたかった気がする

たぶん、初めて「付き合う」や「セックス」や「酔っ払う」っていう未知の体験をしたかったのと同じように、「浮気」というものも体験してみたかった。「あのやってはいけないけど、よく話に出てくる未知の行為ってどんなものだろう?」そんな純粋な好奇心から

自分を観察しながら今信じている仮説は

1。僕は権力に強要されると抵抗したくなる。例えば、親や先生や社会に「こうすべきだ」って言われると、それに「従いたくない!」って強い悲鳴が自分の内側から出る。誰でも多少はそういう体験をしてきて、今もしているんじゃないかな?

僕はわりとそれを言動に表す方なのかもしれない。肩書きを「共生革命家」って書くくらいだし。

そういう意味でも、「誰かと付き合っている時に、他の人に恋してはいけない」っていう思想にすごく抵抗を感じる。一夫一妻性的な思想/ルールは、自分の内側から湧いてきた概念ではないから。もちろん、付き合っている人を傷つけたいないから、「他の人と親密な関係をもたない方がいい」という声は僕の中にある。ただ、誰かに恋をして、その素直な気持ちを「お祝いとして表現したい!」っという声を押さえつけてしまうと、ものすごいストレスになってしまう。安心して、そういう複雑な心境を素直に話せる環境が見つからないから、出していい自分と出してはいけない自分という心の分離が起きてしまう。

「正しい・間違っている」の世界観で生きていると、「間違っている」と(権力者が、社会が)定めたものが表現しにくくなる。実際、罰せられることもあるし。

2。僕は恋をしやすい性質がある。さまざまな人(男女関係なく)に惹かれて、友達になったり、活動仲間になったり、時にはそれが恋という感覚になる。魅力的な人と出会うからなのか、その「出会い」の条件(心の状態、環境、社会で起きていることとか)なのかよく分からないけど、パートナーがいても、いなくても、恋をする。

そして、それは自分の中ではとても心地良くって、大いにお祝いしたい感覚なんだ。何か美しいものと触れたときの感動のように。

同時に、相手にどう思われるかという大きな不安や恐れがあったり、パートナーがすでにいる場合は、パートナーや周りの人がどう反応したり、評価したり、懲罰をするかが怖くなる。

とても複雑な状況の中で、自分の気持ちを押さえつけたり、中途半端に隠したり(隠したくないから、中途半端にしてしまう)、すごく苦労をしてきた。安心して打ち明けたいけど、どこか隠したりしないと「問題」になる恐れを感じて生きてきた。実際、大変な目にもあってきたし。

大手メディアでよく聞く「不倫」っていう言葉がすごく引っかかる。人の関心を引くパワフルな言葉/概念で、お金や権力もかなり動かせるよね(週刊誌、ドラマや映画、弁護士、政治家、戦争とか)。

しかも「不倫」って、すごく悪そうな響きがある。倫理が全くないような。どこから「不倫」とか浮気になるのか分からないけど(恋をすることなのか、相手に伝えることなのか、共に過ごすことなのか、性行為なのか)、その評価ってどのくらい人の役に立っているのだろうか?評価している「行為」より、その「評価」自体が人を不幸にしている感じもする。

浮気や不倫という概念がなければ、同じ行為がそこまで苦しみと不和を引き起こすだろうか?

「正しい関係性」「健全な関係性」の硬直した概念と、それを強要する文化が問題なんじゃないかな?

例えば、昔は違う階級や違う人種と付き合ったり結婚することが、家族や社会から追放される程のとても「悪い」行為だった話を聞いたことがある。インドの最近のニュースで、違う階級の人と付き合って殺された若いカップルの話もたびたび読む。アメリカとかでもゲイのカップルが殺されたり、LGBTIの人たちが世界中で差別と暴力を受けたり。複数の男性と性関係を持った女性が「娼婦」呼ばわりされたり。

その時の権力者たち(権威がある人、多数派など)が信じている、正しさや「こうあるべきだ」の強要が多くの苦しみと暴力を引き起こしているんじゃないかな?

離婚した女性、シングルマザー、30代以降の独身(特に女性)などが感じている、社会でのいずらさの話をたくさん聞いてきた。それは、主流の概念(常識)によるものじゃないのかな?

LGBTIQの人たちも、「不自然」だとか「罪人」と評価されて、長く苦しんできた。

多様な人たちのありのままをもっと受け入れられる社会になったら、どれだけ苦しみが減るだろうか。

【第五章】所有という概念

ずっと違和感を感じていることが、所有の概念。土地を所有したり、人を所有したり。所有することは、つまり「別れていること」「分離」が前提なんだよね。繋がりが前提だったら、所有する意味がないから。そして、所有することはコントロールする/しようとすることが性質なんじゃないかな。僕の彼女、私の旦那、僕の息子、あなたの娘、僕の土地・物。。。。

僕が生きてきた社会では、自分の「所有している」関係をコントロールしようとする傾向がある。パートナーに自分の期待を投影して、相手を評価したり、子供に自分の「正しさ」を押し付けたり。期待が「裏切られたら」相手を批判して、罰したり。

所有や相手をコントロールしない関係性を僕は目指したい。お互いの自由や選択、無常という現実を受け入れた関係性に僕は希望を感じている。

僕は人を所有したくないし、所有されたくもない。

所有は幻想

所有は苦しみのタネ

ある意味、結婚制度は所有や期待を強化してしまって、多くの人を苦しませているんじゃないかな?(結婚して幸せである人もいるだろうけど)。僕は、そういう苦しんでいる人と数多く会っているから、なおさらそう思う。結婚相手が見つからなくって焦っている人、結婚相手と別れたい人、「不倫」された人、「不倫」している人、「不倫」されてから「不倫」する人。

会ってきた人の中で、幸せそうに結婚している人は、マイノリティ。

この前見たモノガミー(一夫一妻性)のドキュメンタリー(Netflix)で、

・自然界ではモノガミーはほとんど存在しない

・人類が誕生してからほとんどの間はモノガミーは主流ではなかった(狩猟採集社会)

・農業、ヒエアルキー、所有、一夫一妻性の結婚、男尊女卑(パトリアルキー)が共に出現した

・家族の財産や権力を増やすための仕組みとして、結婚が現れた説が強い(昔のお見合い結婚みたいに)

・妻や子供は、夫や夫の家族の所有物

・恋を軸に結婚することは、ここ数十年で起きた大きな変化

・愛は感情、モノガミーはルール。愛することと、モノガミーというルールに忠実であることを困惑しているのではないか?

というような話が興味深かった。

【第六章】世界観の違いと境界線

一つ大きな難題だったのは、パートナーと僕の間で世界観や境界線の捉え方が大きく違ったこと。

僕は、なるべく境界線を曖昧にしようとする傾向があって(パートナーシップ、ギフトエコノミー、無差別←善悪がない世界観など)、パートナーは明確なバウンダリー(境界線)があるほうが安心する感じだった。なんという無理な組み合わせ!

自分の家にも、僕はいろんな人を誘ってわいわいするのが好きなんだけど、相手はパーソナルスペースを守ることがとても重要だった。静かで見通しがつく神聖な空間が彼女には必要だった。僕はいろんな人と有機的で親密な関係(主に心の親密さ)を自然に持ってしまう傾向があり、それに不安を感じていたパートナーとの世界観や願望の大きな差に二人はずっと悩んできた。

お互いの世界観、安心や自由を尊重したいから、何年も難しい対話を重ねてきたけど、なかなかブレークスルーがないまま、なんとかそれぞれ妥協し合いながらパートナーシップを続けた。win winの逆で、お互い大切なニーズを手放すlose loseって感じの流れになっていった。ま、そう考えると、僕たちはかなりねばって、とても根強い愛によって結ばれていた感じもする。

具体例を一つ出すと、僕が他の人に恋をしてしまった時に、それをパートナーに打ち明けると、ものすごく彼女は痛みを感じて辛そうな状態になってしまう。僕は、彼女が幸せであって欲しいから、僕もものすごく辛い気持ちになってしまう。そして、「悪いことをした」と自分で思ったり、彼女にそう責められたりして、罪悪感を感じて、なんとか謝って調和を取り戻そうと必死になる。そうすると、純粋に「誰かに惹かれた自分」の居場所(心の中とパートナーとの関係性の中で)がなくなる。そして、「好き」なのにそれを正直に表現できなくなってしまう自分がいて、どんどん内側で分離が起きてしまう。彼女に自分の素直さや正直さを抑圧されていると思い始めたり、自分の中でも安心と安全を優先するために、恋をしてしまった自分を抑えつけようとする状況が起きてしまう。そして、彼女を「敵」として感じはじめたり、自分の中で混乱したり、フィルターをかけている自分に矛盾を感じたりして、愛のエネルギーが嫌悪に変わっていった。

気づいたら、僕は自分の純粋な愛を表現できなくなってたり、願っている愛の表現を得られなくなってしまっていて、それがとても苦しかった。お互い愛しているから一緒にいるのに、不思議なことにどんどん距離が増していった。お互いとても苦しかった。固着してしまった「夫婦」の概念に縛られて、想像力の危機に陥っていたんだと思う。

自分の中にある愛の気持ちを、本当だったらフィルターをかけずに表現したい。でも、時には相手がそれを受け取れない状態で、拒絶されたり、相手が混乱してしまったり(受け取りたいけど、受け取れない感じ)ということが何年も続いた。

勇気を持って正直に話すと罰せられることを恐れて、他の手段が見つからず、隠したくなっていた(安全と調和のために)。彼女も、僕を疑いはじめて、疑惑の手がかりを探しはじめてしまって、とても心地の悪い関係性に変わっていった。愛で繋がっているはずの僕たちは、信頼が蝕まれていって、素直さ、正直さ、あたたかさ、親密さとかがどんどん消えていった。なんという愛の悲劇!

そんなわけで、どんどん関係性が停滞していって、ところどころで頑張ってあたたかさを復活させるものの、やっぱりそれぞれに手放せない何かがあって、また重い雰囲気に落ちていくことをずっと繰り返してきた。それが、だんだん耐えられなくなって、僕は精神的に不安定になったり、それぞれ相手や自分に嫌悪感を感じたり、家が辛い修行の場に変わっていって、僕は解離し始めていった。

安心して自由に自分らしくいられるのは、家の外で、家の中ではパートナーが求めている自分の一部だけを表現する、ありのままでいられない「部分」の僕だった。安心して自分の全体性が大事にできず、外側からも内側からも抑圧を感じていた。正直に本音を伝えようとすると、相手がものすごく傷ついて、一瞬で出口が見当たらない険悪な雰囲気に変わっていった。どう頑張ってもうまくいかず、お互い精神的な資源もどんどんなくなっていって、すごく危ない精神状態になっていった。

そうすると、必死にパートナー以外の人に助けを求めたり、表現できない自分の居場所を探すようになって、そんな自分を受けとめてくれる女性の場合、その人に無防備な自分、より純粋な自分を表現するようになっていって、その人と心の親密さが深まっていく。そして、パートナーとの関係はストレスとして感じて、相談相手の女性に養われていく(ニーズ:安心、無防備さ、全体性、あたたかさ、親密さ、受容とかが満たされる)流れができていく。

こういうことって、今の社会で結構起きているんじゃないかな?

僕たちが直面していた一つの難題は、彼女は一夫一妻性(monogamy)しか「ありえない」というスタンスで、悲劇的なことに僕は一夫一妻性という型にどう頑張っても自分をはめられなかった。とっても不自然な感じがして、僕は「決めつけ」「条件付き」「所有」のない関係性に惹かれていく。

ここ数年、「ポリアモリー」(polyamory)という表現を聞くようになった。もしかしたら、僕はそうなのかもしれない。でも、なるべく自分にラベルを貼りたくない。なぜなら、それも概念で、命の固定化に違和感を感じるから。その時その時で、僕は変わり続けている。一人と恋愛関係をもつ時、もう一人に恋をする時、誰とも恋愛感情がない時、全ての人や命に愛を感じている時。ラベル、ルール、概念、道徳的評価、常識とかに、自分を合わせようとするのにずっと苦労してきた。

固定化しない、それぞれの今ここの願いを大切にして、多様性を認める、柔軟であたたかい社会を育んでいきたい。

そして、妥協をし続けるのをやめようとして、それぞれにとって大切なことを、大切にする新しい冒険に出たパートナーと僕をお祝いしたい。多くの痛みがあったし、まだ解消していない痛みや課題も続いているけど、僕は、とにかく彼女を「敵」として接したくないし、形がどうあれ、愛を彼女に表現し続けたい。

【第七章】トラウマと精神病

2020年あたりから、不思議な精神的状態が二人の中で起きていた経験が続いていた。彼女が僕に怒りを表現するとき、僕はとにかく恐怖感に乗っ取られて、しまいには向かってくる怒りのエネルギーに耐えきれず、戦ったり逃げたりするともっと大変なことが起きると恐れて、「あー無理だ」って思いながら、解離をするようになった。そういう僕の状態がさらに彼女の怒り(不安?)を煽る感じがあって、何度か「やめて」ってお願いしても、彼女の怒りの表現が止まらない状態になってしまっていた。

台本を読んでいるかのような状況が何度か起きた。僕も彼女も、方向転換ができない、心の奥深くからの悲鳴の演出のような。お互い、その状況を続けたいわけじゃないのに、それぞれのパートを演出してしまう罠のような状況。

乗り越えようと全力で努めて、いろんな人にも手伝ってもらったものの、恐れと不安に僕たちの関係は染まっていって、僕もいつ解離して、いつ生きるのを諦めるのかが分からない状態になっていった。

最近は、それは僕たちの幼少期のトラウマなんじゃないかって思い始めた。彼女も、僕も、違うかたちの大変な幼少期をおくっていた。そこから、回復しきれないまま、そのトラウマをパートナーシップで再現しているのかも知れない。または、子供の時に求めていたけど得られなかった安心できる「愛」を、相手にものすごく強く求めていて、それが実現しないことによって、そのインナーチャイルドのような存在が現れるのかも知れない。とにかく、とても不思議で辛い状況だったのは確か。

多くの人が、なんらかの形でこういう体験で苦しんでいるんじゃないかな?

そして、こういう体験をしたことがない人(いわゆる「正常」な人)には、この心境と現状を理解できないんだと思う。

こういうできごとがあったことから、僕はものすごくトラウマとかに関心をもつようになった。NVC仲間の安納献に紹介してもらった、医師のガボール・マテの影響も大きい。

うわ~だいぶ長くなったので、この辺で中締め!

所有や強要のない、変わり続ける命を大切にする、コミュニティとしてのパートナーシップや子育ての世界を僕は創造して(または、取り戻して)いきたい。そして、社会としてトラウマや精神病をより話題にして、共に理解していって、評価や批判ではなく、共感と勇気ある思いやりが言動の源になる、支え合いの文化の流れを育てていきたい。

みんなと一緒にできたら嬉しい。

Thanks for reading

ありがとう

ZEGG Forum https://www.permacultura-transizione.com/ecovillaggi/costruzione-comunita/zegg-forum-lo-strumento-di-condivisione-per-creare-comunita/

【後書き】その他、もっと触れたかったテーマ

自由意志とトラウマ ← そもそも「自由意志」は存在しないという科学的な検証がされているみたいで、トラウマがある人は、同じくらいのトラウマを抱えている人と付き合うことになったり、悪循環の関係性に依存してしまう話をガボール・マテがしていた。幼少期のトラウマで、その人はかなり高い確率でそういうパートナーシップや様々な依存にはまってしまう話が最近の興味。そうすると、人を責めることも評価することも、罰することが、いかに無意味で状況を悪化させるだけかがより鮮明に理解できる気がした。ユヴァル・ハラリが、自由意志はヨーロッパで流行った裏付けのない思想というような話をしていたり、ガボール・マテがトラウマが現代社会で蔓延しているという話からも興味深い。

トラウマとアタッチメント(愛着)←これは心理学分野やガボール・マテからの学びなんだけど、幼少期の母親との関係性やトラウマによって、その後の恋愛や親密な関係性が大きく影響されてしまう話。

タッチ(触れること) ←僕は人と触れることがとても好きで(誰でもいつでもではないが)、日本での生活で、人と触れる機会が少ないのが辛く感じる時がある。ハグ(男女関係なく)をしたり、マッサージ(体の養生)、ゴロゴロ(子供や動物が自然にやるように)したり。コロナ禍で、そこはなおさら辛く感じている。アメリカの西海岸で暮らしていたときは、友達同士でも当たり前に猿や猫のように触れ合ったりしていた(性的ではなく)文化にいて、とても安心できたけど、日本だと、安心してそういう振る舞いがしずらいのが結構ストレスなんだよな~。

恋愛やパートナーシップをコミュニティとして支える ←恋愛やパートナーシップが、コミュニティとしての自分ごとになったら、もっと困っているパートナー同士を支える肥えた土壌ができるんじゃないかな。正しさや道徳的な評価ではなく、それぞれが何を望んでいて、何を求めているのかを、偏見なく共感的に聞いてくれるコミュニティのあり方。僕たちの社会やコミュニティが細分化(核家族化、恋愛は当事者だけの選択と責任)されていく中、これはとても重要なことな方向性だと思う。

そんなような取り組みを具体的に取り組んでいるのが、Tamara Ecovillage タマラエコビレッジだったり、アズワン鈴鹿コミュニティ。狩猟採取民族、先住民、日本のお祭りとかでもそういうような世界観や文化があったことも聞くようになって、とても興味深い。

僧院プラムビレッジ ←20代にプラムビレッジという禅僧のコミュニティで2ヶ月暮らしたことがあって、その時に恋愛を手放して出家しようと真剣に考えていた。出家した人は、恋愛関係や性的な関係を一切手放すことが重要条件の一つ。その僕が理解している理由は、恋愛はものすごい執着となり、その執着が苦しみを起こしてしまうから。確かに。。。そして、執着があるがゆえ、全ての人、生きとしていけるものを平等に愛せなくなってしまう。苦しみから解放されて、より多くの人を幸福に導く道を歩む人の道の一つとして、深い意思で恋愛や性的な関係を手放すという生き方も興味深い。

どこか惹かれるところもあるけど、恋愛やパートナーシップやセックスを手放すのは、かなりハードルが高い!

災害の影響 ←3.11やコロナ禍の中で、別れたり離婚が増えたという話も読んだ気がしたけど(実際はわからない)、社会が大きく変化するときに、関係性ってどう影響されるんだろう?

パーマカルチャーツアーやってるよ。