【海の本音】自分のトラウマと鬱病から気づいたこと

僕にとってとても大事な内容なので、かなり長くなってしまった。I hope it is meaningful for someone out there…..it is for me.

ここ2ヶ月以上、凄まじく大変な状況の中で精神的に崩壊しないように、生きてきた。

精神的サバイバル

誕生日にメッセージを送ってくれたみんな、本当にありがとう〜
返事はできてないけど、すごく支えになった

外から見ても、ほとんどの人が気づかないくらい普通に振る舞えるし、生活も物質的な面では何も困っていない

でも、短時間での感情の激しい浮き沈みや思考の暴走、時には長期的な鬱や解離することもある

ここまで生きてこれたことも不思議に思うことがある

今回のお祝いは、精神的に崩壊したものの鬱にはどうやら入ってなさそう。入ってもおかしくない状況だったんだけど。だいぶ技と体力をつけてきて、よりサポートの生態系に寄りかかれるようになってきた。これがresilience レジリアンスってことなんだろうなって思っている

「やるではないか」って自分に感心している

イベントとかワークショップで「ソーヤー海さんはすごいですね」って言われることがあるんだけど、自分の視点から何がすごいかというと、鬱病に出入りして自殺も何度か考えてきたのに、ここまで生きてこれたこと。そして、そんな状態を繰り返しながらTUPやパーマカルチャーと平和道場を、大勢の人と不調和のカオスの中、ここまで育んでこれたこと(もちろん、一人ではない)。

なので、ひとまずここまで生きてこれた自分にお祝いと感謝

季節のように、安定期と不安定期のサイクルがあって、自主的にそれを作っているのか(例えば、人生をわざわざ不安定にするとか)、自分の意思以外のところでそのサイクルが起こされているのかが分からない。どうなんだろうね?

今は、不安定期の後半かな〜

さて、そんな不安定期の凄まじい大変さの中で、多くの気づきやインスピレーションをいただいていて、安定する前にそこの収穫をしたい。安定してしまうと細かいことは忘れてしまうから。そして、それが他の人の役にも立つかもしれないから、シェアしたい。

トラウマ

最近、NVCや社会変革仲間の安納献や鈴木重子の影響で、トラウマ(特に幼少期の)、脳科学、無意識に働きかけるワーク(ファミリーコンスタレーションやIFSなど)に関心を持つようになった。

そこで、気づいたのが自分がトラウマを持っている人であること。しかも、おそらく子供の頃から。「ハーフ」として日本の社会に溶け込めなかったり(差別されたり)、何世代にもわたる家族のいろんな大変なことを受け継いだり、近い人の鬱病と共に育ったことなどなど。子供の時に大人に暴力を振るわれて何もできなかったこととか(先生とかにも)、いじめられた体験とか、子供としてとくに無力感と恐怖を感じることを何度も体験してきた。

そして、それがいろんな人間関係を影響してきた。とくに、家族関係やパートナーシップ。

家族やパートナーという、一番愛していて信頼している人たちに、自分ではどうしようもない大変な精神状況を「分かってもらえない」と感じるととくに辛い(自分の状況を過小評価されたり、批判されたり、気づかれなかったり)。おそらく、僕のように一番分かった欲しい人たちに分かってもらえなく、孤独を感じたり、絶望を感じている人は少なくないんじゃないかな?(相手が悪いと言っているわけではない)。

その上、自分が不安定な時に、相手が僕に向かって怒りや厳しい評価を向けたときに、自分が特殊な精神状態に入ってしまうことも大きな悩み。客観的に見たら、別に身の危険があるわけではないのに、心のどこかでスイッチが入ってしまい、その状況がものすごい脅威として感じてしまって、その場からどう安全に脱出することしか考えられなくなる。

そういう時に、解離したり、消えたくなったり、生きることに関心がなくなっていったりする。そういう状況が繰り返されるうちに、相手といることが怖くなって、距離がどんどん増したり、生存確保スイッチがよりすぐ入ってしまったりしていることに気づいた。その人といると安心できる居場所がなくなってしまう感覚。

さらに複雑性が増すのは、相手もトラウマを抱えていて、お互いそのスイッチが同時に入ってしまった状態で、磁石のようにそれぞれのトラウマが強烈に引き寄せあうとき。そういうとき、トラウマの傷が深まって、安心と信頼が減っていってしまい、この状況が続いたら死ぬかもって思うことがある。相手も選択してその状態になっている訳ではないから(コントロールが効かない状態)、相手を「いつ爆発するか分からない地雷のような存在」として警戒するようになってしまう。愛しているんだけど、相手がとても怖い存在になってしまう。

おそらく、それゆえに繰り返し起きてしまうコミュニケーションの絶望的なパターンが続いてしまっている。大学では心理学先行して、マインドフルネスも2006年あたりから実践してきて、NVCも同じくらいやってきたのに、どうしても抜け出しきれない辛いパターンが幾つかある。

自分がトラウマを持っていることを、認めたくなかったのか、気づかなかったのか、「トラウマ」ってよんでいいと思っていなかったのか分からないけど、「幼少期のトラウマ」って視点から見たときに、自分への思いやりと愛が増した感じと、力が抜ける感じがあった。「努力が足りないから」じゃないんだ〜っていう気づきかな(めっちゃ努力してきたし!)。

献さんが好きな脳科学者の研究によると、トラウマ(特に幼少期の)は脳の構造を変えてしまい、それは大人になっても変わったまま。そう簡単には、「正常」な状態に戻せないけど、できないわけでもない。彼らがおすすめするのは、共感やマインドフルネスなど。

それと、社会全体としてトラウマについて理解を深めていき、いかに「常識」となってしまったトラウマを増やしてしまう世界観、子育ての前提やあり方、リーダーシップ、教育、医療、法律、政治、経済を変える必要があるかが大切かと訴えている。

どうやら、社会や世界中で起きている多くの問題とトラウマは重要な関係があるみたい。いじめ、男女差別、虐待、戦争、環境破壊、セクハラ、パワハラ、鬱、競争社会、テロ、自殺。。。

このテーマ関連のおすすめの動画は記事の一番下にまとめてみた

自由意志信仰の抑圧

僕が生まれた社会の信仰の一つは、人間には自由意志があるということ。著者のユヴァル・ノア・ハラリや神経科学者のロバート・サポルスキーによると、「自由意志」は思想であり、それが存在することを証明する科学的な裏付けはほとんどないみたい。(0ではないようだけど)

「自由意志」という概念が前提として信仰されている社会の中で、「それは自己責任」や「もっと頑張って自己実現しよう」というような表現が、多くの人にプレッシャーをかけて、苦しませている要因になっているのではないかって思い始めた

僕も自由意志の信者として生きてきて、自分が「選んだ」ことは自分の責任として考えてきたし、自分が「努力すれば」「頑張れば」なんでも可能だと信じてきた。でも、本当にそうなのかな?

トラウマや社会問題(戦争や環境汚染が続く理由とか)やシステム思考について研究していくうちに、多くのことは自分で「選んでいる」と思えなくなってきた。サポルスキーのTEDトーク動画がすごく分かりやすく説明している。経済的にみても、人の言動を「操る」産業(広告業界や監視資本主義ビジネスとか)がものすごく儲かっているのは、それなりの結果を出しているから。僕のように心理学を専攻した「心の専門家」の多くはそういう業界に就職していく。

記事の下で紹介しているガボール・マテの動画で、世の中の多くの人がトラウマを抱えていて、トラウマ状態の人は純粋な自由意志でものごとを決められていないという話しをしている(例えば、薬物や消費中毒になろうと「選ぶ人」はおそらくいない)。そうすると、僕たちの報復的司法(犯罪者に罰を与える)の制度や因果応報の前提が不適切なのでは、と彼は訴える。社会から「犯罪」と指定されたものを「犯す」とき、少なくともトラウマ状態の人はそれを「選択」していないから、罰してその人を「治そう」としても意味がない。苦しんでいる人をさらに苦しませるだけで、個人と社会的なトラウマを強化させてしまう。

既存のコミュニケーションが引き起こす悲劇

僕が生まれ育った現代社会(patriarchical society パトリアルキー社会)の母国語が、社会的なトラウマの根底にあり、個人のトラウマを悪化させてしまっているのではないかと考えるようになった。

トラウマ状態の自分をさらに追い詰めてきたのが、評価や批判の言葉。家族、パートナー、仲間、よく知らない人、さらに自分(避けられない!)からの矢。ギリギリ生きることにしがみついている時に、きつく評価・批判されると、命を手放しそうになることさえある。

自殺してしまう人の多くは、そういう状態だったのかな〜って思ったりする
辛かっただろうな〜

具体的にどういうことかを説明するために、「NVC 人と人との関係にいのちを吹き込む法」からの引用してみた

心の底からの訴えを遠ざけてしまうコミュニケーションにはいろいろあるが、その一つが道徳をふりかざして人を裁くというものだ。自分の価値観にそぐわないふるまいをする相手が悪いとか、間違っているとほのめかすやり方だ。そうした判断は言葉にあらわれる。「あまりにも自分勝手なところが、あなたの問題だ」「彼女は怠惰だ」「彼らは偏見に満ちている」「これは不適切だ」など。非難、侮蔑、こきおろし、烙印を押す、批判、比較、分析は全て、形を変えた裁きなのだ。

スーフィーの詩人、ジェラルディン・ルミは次のように記している。「まちがった行いと正しい行いという思考を超えたとろこに、野原が広がっています。そこで逢いましょう。」心の底からの訴えを遠ざけてしまうコミュニケーションには、正しいかどうか、間違っているかどうかという発想しかない。つまり評価し、それを押しつける世界だ。そこには、人と人の行動を分別するための語彙があふれている。そうした言葉を使えば、相手のふるまいを裁くことにつながる。いい人間、悪い人間、ノーマル、アブノーマル、責任感がある、無責任、頭がいい、無知、などと勝手に決めつけている。

心の底からの訴えを遠ざけてしまうコミュニケーションは、哲学にも、政治にも深く根差す。

僕は、プラムビレッジ(禅の僧院)やNVCの集いで、多くのトラウマを抱えた人と出会ってきた。とくに性暴力を体験した女性と多く出会ってきた。虐待された男性も多い。そういう人たちの安心できる居場所は今の社会では少なく感じる。「彼らが何か悪いのでは」と疑われたり、信じてもらえなかったりすることが、更なる孤立化とトラウマになってしまっている。

なんという悲劇

いつか、僕も、彼女ら、彼らが安心できる社会になったらいいなって願っている。

そのために、僕も人生をかけて、平和・非暴力の活動をやり続けたいと思っている。

終わりに

長くなったけど、ここまで読んでくれてありがとう〜
結構ヘビー級の記事だったね
でも、今後もこのテーマが探求と活動の中心になりそうだから、しっかり言葉にしてみたかった。三週間頑張りました!

うまく、自分が伝えたいことを日本語で表現できたか自信はないけど。。。。

最後に、
僕にとって、僕が体験しているトラウマや鬱病は一種のギフトだと捉えている。
自分も生きる気力を失うくらい鬱になったりするから、鬱じゃない状態の素晴らしさをより味わえる。生きていることを大いに祝福できる。

そして、鬱状態の大切な人たちや出会う人に、より共感したり理解することができるようになった。鬱やトラウマを抱えている人がものすごく多いことにも気づけた。

もしかしたら、自分がトラウマや鬱を体験してきて、深い苦しみを味わってきたからこそ、平和の道を歩むことになったのかも。なんと素晴らしい〜

今日も、生きていることに感謝

生きているだけで十分

Thanks for reading

Love to the world

Kai

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*中毒は麻薬やアルコールだけではなく、買い物や人を助けること、ワーカホリックとかも含む

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パーマカルチャーツアーやってるよ。